趣味と興味が世界を広げることを実感した最近の話。
どうもどうも。
えす(@Sakura_05300921) です。
たまには角張らずに、等身大のようで等身大じゃないような、そんないつもの日常についてゆったり書くのもいいんじゃないかなんて思います。
ある意味、ここ数ヶ月で気付いた自分の中の変化のようなもの。
それを実感した出来事と一緒に、ここに綴っておきます。
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ここ最近の出来事。
まずは、最近あった3つの出来事を短編エッセイのような形でまとめてみました。
エッセイの定義はいまいち分からないので正確にはエッセイのようなもの。
でもこういうエッセイのようなものを書くのはすごく好きだなぁと。
地下鉄で移動していたときの話。
ここ最近と言ってもちょうど2ヶ月ぐらい前のこと。
私はブロガーオフ会に参加するために地下鉄で名古屋駅に向かっていた。
いつもと何ら変わりない最寄り駅。
エレベーターに乗り込む老人を横目に、軽快に地下への階段を下りていく。それは言うなれば若者としてプライドのようなものだったのかもしれない。
普段は大抵引きこもっており運動不足なため、地下に着いたときには身体に多少の疲れを感じていた。そうやって数十秒前の自分を後悔するのもいつものことである。
改札を通り、駅のホームにそっと佇む影。
近くでずーっとフラフラ歩いているおっさんが、物凄い怪しさを醸し出していた。
なんでわざわざそんな不審者っぽい行動をとるのか理解に苦しむ。
警笛。独特の高音がそこに響き渡れば、鋼の塊はやってくる。
扉が開く。たくさんの人間がいる。
人混みが苦手な私にとって、地下鉄はやはり窮屈に感じてしまう。
しかし、私の注目は別のところに向けられていた。
視線の先にあったもの。それは、広告である。
何か役立つ情報が書いてあったワケでもなく、美しい女優が載っていたワケでもない。
私はずーっと、車内にある広告のデザインに目を凝らしていた。
前を向けば横枠広告、斜め上を向けば額面広告、上を向けば中吊広告。
普段は煩わしささえ感じていた広告が、その日はすごく輝いていた。鮮やかに映った。
それぞれに個性がある。色、フォント、バランス。
見ただけで名前が分かるほど詳しくはないが、全て違うフォントで出来ている。
乗換駅に降りると、そこは人で溢れかえっていた。
嫌な空間だ。通り行く人からは感情が読み取れない。世界は途端に無機質さを帯びた。
エスカレーターへと向かう群れ。
雑多な流れに沿って、ちょっと身体を引きながら、譲りながら、その動く床の左側に立つ。
10mほど先のホームに、電車が入ってくるのが見えた。
こんな状況でも決して焦らず走らず達観するかのように振る舞うことをポリシーとしている私だが、待ち合わせ時間とのせめぎ合いの中で、中途半端な小走りをしていた。
ふと横に目をやると、またアイツがいる。広告だ。
すごい。すごいの一言。これがプロの技か。
可読性を高める工夫はもちろん、その他にも随所にこだわりが見て取れる。
勉強用に写真を撮って保存しておこうとすら思ったが、電車に間に合わなさそうだし、何よりもそれはさすがに不審者扱いされそうだったのでやめておいた。
脳裏には、駅のホームで出会ったあのおっさんが浮かんでいた。
美容院に行ったときの話。
先日、4ヶ月ぶりに美容院に行った。
いくら人と会うことがないからと言って、髪を伸ばしっぱなしにして廃人感を漂わせておくのはさすがに人間的にダメだろと思ったのも1つの要因。
ほんとは行きたくないんだけどね。
人見知りにとって美容院とは処刑場のようなものだし。
ただ、髪が伸び続けるという人間の無駄な機能が排除されない限りは行くしかない。
そう考えるとそのごく自然なる生理現象に付け入った業界はなかなかやり手だなと思う。
美容院に着いた。4ヶ月前に行ったところと同じ店。
前回も何やかんやで良い感じに切ってもらったし人見知りへの対応もなかなか評価に値するものがあったのでリピートに至った。謎に上から目線なのは気にしなくていい。
店に客はいない。すぐにカットに入る。
不安定なスタイリングチェアに座る瞬間の緊張と座った後の安堵感が私の中で入れ違った。
ヘアカタログを手渡される。だがこれほどまでに ※ただしイケメンに限る 的なものは無い。
髪型を指定したら美容師に「うん、とりあえず身の程を知ろうね。(にっこり)」とか思われるんじゃないかと怯え、そして黙り込む。
これに関しては後にTwitterで某元美容師の方から「方向性を決めるぐらいにしか見てないから気にしなくていい」と教えてもらった。参考になります。(互助感)
リズミカルに髪が切られていく。
カット前に付けるあのマントのような布には自分の髪が無造作に広がっていた。
いつも思うことだが、あの光景を見るとどことなく生々しさを感じて何とも言えない気持ちになる。
あとそのマントが地味にきつくて息が苦しい。
いやマントではない。あくまでもマントのような布であってマントではない。
そんな中で、今度は 雑誌の表紙のデザインに釘付けになる自分がいた。
絶対に話しかけんじゃねぇぞ・・・と人見知りオーラを醸し出しつつも眼鏡を取られぼやけた視界に映っていたのは間違いなく目の前の台に鎮座する雑誌だった。
ヘアカタログの隣で圧倒的な存在感をそこに示しているような、いや、違う。
寧ろ名脇役としてヘアカタログを引き立たせているようにも見える小粋な雑誌。
鏡を見てカットの状況を確認しろよと言われても前述のとおり眼鏡を取られているので全く見えないしそもそも何か思ったとしても口に出せない。
だからずっと雑誌の表紙を見ていた。
特に意識して見ていたワケではない。単純に魅了されていたとでも言うべきか。
ひたすらに、ただひたすらに ぼやけているが、アクティビティとアダルティの絶妙なる按配に思いっきり心を打たれた。気付けばカットは終わっていた。
雑誌の内容はおそらく料理かファッションという所だろうか。
今のところどちらにも興味がないので表紙のデザインだけに見入っていた。
でも、もしこれでどちらともに興味があったとしたら、世界はもっと色鮮やかに映るのかもしれない。
そんなに彩度が上がったら感覚がリアリティから剥離して頭がおかしくなりそうだけど、そんなカオスもまた一興だと思う。
アニメーション映画を見ていたときの話。
2階のリビングに入ると、母がテレビを見ていた。
一口だけ喉にコーラを通してから、ソファのサイドフレームに腰を掛ける。
無駄に不安定なその位置で、バランスを保ちながらテレビの画面を覗き込む。
耳の聴こえない少女と、ヤンチャに見えてどこか優しそうな少年の物語。
これはあれだ。「聲の形」だ。
金曜ロードショーか何かだろうか。
ニート生活により曜日感覚が消え失せた私の脳内でその問いに対する答えを導き出すのは非常に困難だった。というか不可能だった。
聲の形というと、上映された当時のめざましテレビで初めて知った作品だ。
確か、君の名は。と同時期にやっていた気がする。
あの社会現象からもう1年半も経ったのかと考えると何とも感慨深い。
いや嘘だ。聲の形どころか君の名は。も映画館に行かずに1年以上あとに地上波放送されたものを見て、しかも時間軸などの変動に全くついて行けずに内容がいまいち理解できなかった低脳の私には感慨深さなんていうものは更々ない。
というか今調べて初めて夢の中で入れ替わっているワケではなく実際に入れ替わっていたという事実を知った。「夢の中で入れ替わってる!?」って大声で言ってたじゃないか...
この頭の悪さ。そりゃあ曜日も分からないワケだ。
話を戻す。
聲の形を初めて見て、すごく雰囲気の良い作品だなと思った。
あっ、これ好きなやつだわ。と一瞬にして察した。絵柄も素敵。
そして同時に、どうすればこんな素敵なイラストを描けるのかに注目していた。
もちろん今までもこのキャラ可愛い... などと思うことはあったがあくまでも「可愛い」止まりで、それ以上でもそれ以下でもなかった。感情はそこで止まったまま。
だがそのときは、目はどうやって描いているんだ?髪は?鼻は?服は?服のシワや影は?と、鼓動を刻むように疑問形が浮き上がり、その全てをくまなく観察していた。学ぼうとしていた。
気付いたときにはもうソファのサイドフレームからテレビの目の前にまで移動している。完全に引き込まれている。
それは紛れもなく、自分の中で、新たなる世界の側面が生まれた瞬間であった。
あっ、そういえばまだちゃんと最後まで見てないんだった。
あとで見よう。録画してあったかどうかは分からない。
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趣味と興味が、世界を広げる。
この3つの短編エッセイのようなものに共通するのは、見出しにもある通り「趣味と興味が世界を広げる」ということ。
地下鉄で移動していたときの話と美容院に行ったときの話はデザインを始めたから見えた世界、アニメーション映画を見ていたときの話はイラスト制作を始めたから見えた世界。
それぞれ、趣味と興味によって浮かび上がった新しい世界の話 です。
最近、見えない世界についてよく考えます。
自分に見えているものは相手には見えていないかもだし、相手に見えているものは自分には見えていないかもしれない。そうやって成り立っている。
世界はいつだって無色透明。
見えないものを見ようとして望遠鏡を覗き込むのはやはり人間の性だろうか。
この歌詞を聞くと阿佐ヶ谷姉妹のネタが先に連想されてしまうあたり私がBUMP OF CHICKENに興味がないことは明白だ。
それもまた1つの見えない世界。
でもせっかくだから、その望遠鏡を覗き込みたいなんて思う日もある。
画像加工サイトを利用するかのように、彩度をグンと上げてみたいと思う日が。
加工と言うと何だか聞こえが悪くて偽りっぽいが、そうして見えた世界が自分にとってより素晴らしいものかもしれない。本当の世界かもしれない。
そんな夢見心地の中で、臆せずに世界を広げていくことは大切 であると、身に沁みて感じていた。
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おわりに
以上、趣味と興味によって変わった最近の日常についての話 でした。
デザインもイラストも “「できる」の幅を広げる” ことを目的に始めたものでしたが、それが思わぬ形で自分の日常に彩りを与えてくれたっていうワケですね。
その趣味と興味が最終的に何らかの形になっていくのかは分かりませんが、こうして新しい世界の側面を楽しめただけでも十分じゃないかな、なんて思ったりもします。
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最後までご覧頂きありがとうございました。
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最近はイラスト描きたい欲がすごいから絵描いて記事書かないブロガーになりそう。